ただ、遅々として進まない原稿を前に、いつの間にか朝になっていることもあります。そんな時、才能ないなぁと感じてへコみますが(^o^;) 決まってとある方が話していた言葉を思い出すんです。
その方いわく、才能の有り無しは自分で判断できないし、判断すること自体に意味がないとのこと。
話はこの後、自分の才能を信じること、作品を作り続けること、逆に制作をやめる決断をすることはできる、と続きます。要するに、何だかわからない才能のせいにしちゃいけない、というわけです。
仕事では、できない理由は考えない、と暗示をかけることがあります。グータラなので、すぐにできない理由を考えようとしちゃうんです。ただ、それを許してしまうと、自分も、自分が引き起こした結果も小さくなってしまうようです。あったかもしれない、起こったかもしれない、そんな可能性を自分の手で摘んでしまうんじゃないか、そう思います。
才能云々と言われた頃、僕は学生でした。ちょうど卒業制作の真っ只中です。
卒業制作では、撮影した動画を静止画単位に分割して、一枚一枚の写真に起こったかもしれない可能性の線を引き、再び動画に戻してやる、というものを作っていました。
当時、一緒に暮らしていた祖父が死んだこともあって、それにけりをつけるようなものを作りたいと考えていました。数秒間の日常的な動画の中にだって、ふるい落とした可能性と、選びとった可能性がある、生きていること自体が主体性のあることなんだ! という青臭いメッセージをこめました。
新しいチャレンジがどうなるかわかりませんが、前向きなメッセージを探しながら、自分を奮い立たせていきたいなと思います。作ることしかやってこなかった僕は、先日、またひとつおじさんになりましたw できない理由を年齢のせいにもしちゃいけませんな(^ー^;A
